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濱野智史著「アーキテクチャの生態系 : 情報環境はいかに設計されてきたか(2008、NTT出版)」を読む

濱野智史 書評 ラスラビ PIP

 2月11日に約1年半の沈黙を破り自らプロデューサーを務めていたアイドルグループPIPについての清算と途上でプロデュースを放棄したことへの謝罪と総括を行うとの触れ込みで行われたニコニコ生放送での会見。そこではひたすら謝罪に徹する彼の姿は見られたもののAKB48のファン時代からの自らのアイドルとの関わりについての総括はついに行われず多くの同会見視聴者の期待を裏切ることとなった。実際、ニコ生の放送枠を提供したPLANETS主催者でありAKBヲタの盟友である宇野常寛氏からもそうした総括は必要であり、自らの研究者としてのアウトプットとして世に出すべきであるとのコメントが聞かれた他、本会見に強い関心を持っていたと思われるロマンポルシェロマン優光もツイートで次のように語っている;「はまのんが本当にやるべきだったのはオタ~運営時代の冷静な総括で、気持ちはあるのだろうけど何も伝えられてないような奇妙な個別謝罪ではなかったとは思うんだけど。いや、予想以上にななめ下に飛んでいってる感じだったなあ…。」

 その濱野智史社会学者としての代表作「アーキテクチャの生態系」は2008年の発行であるから執筆時の情報環境を考慮すればほぼ10年前のインターネットをめぐる情報環境についての考察ということになり、通常であれば古さは否めない。なにしろフェイスブックツイッターもまだアメリカで産声を上げた直後で日本ではまだ野のものとも山のものともつかない状況であったのだ。しかしながらそこで彼が「アーキテクチャ」として紐解いたウェブを中心とするプラットフォームの仕組みに関する洞察は社会情報環境をテーマとする多くの研究者に少なからず影響を与え、多くの論文で引用されてきた。おそらく筆者も自らの論文執筆の際には本書で濱野氏が示したいくつかの概念を引用することになるだろう。移り変わりの激しいウェブテクノロジーの環境においてある一時点での状況を俯瞰して見通し各々の概念を整理したうえで生態系として提示された本書の内容を振り返り、彼のアイドル活動との関連について考察することはあながち意味のないことでもないだろう。

 本書はゼロ年代のWEBのあり方についてアーキテクチャとそれを取り巻く生態系という概念から紐解こうと試み、Webの覇者としてのグーグル、グーグルなきWeb進化の形態としての2chへの言及を行うとともに日米のSNSの差異について閉鎖性、儀礼的無関心などから読み解いていく。またファイル共有ソフトやニコ動に見る同期/非同期の問題、初音ミク現象とオープンソースに見るn次創作への言及、操作ログとしての携帯小説、そして日本に自生するアーキテクチャについて思いを寄せつつ閉める。

 特に2chのフロー、コピペ文化、匿名性といった特性が固定した一定の参加者による場の支配を排除する仕組みとなっている点を看破した点、また日本人特有の小集団内で閉じる気質を生かしたミクシィが執筆時点で最大のユーザベースを誇っていた点に関して山岸俊男氏の日本人の安心社会と米国人の信頼社会の概念を適用して説明する点に迫力がある。米国のように流動性が高い社会ではまず個人の信頼度を高くおいて修正していくほうが生産性が高い一方で、日本のように固定的な社会ではその個人が属する集団内において内輪を裏切らないことの合理性が高くなる。そのため、個々人に対する信頼性よりも個人がどこに属するかということを重視する傾向にあることを引き合いに出し、ミクシィのような招待制をとり、知り合いのみに開いたあり方が日本人にとっての安心を引き出すことで日本での最大ユーザ獲得につながっているのだと結論づける。濱野氏はこの時点でのミクシィのユーザー数1500万人という巨大なインストールベースによるネットワーク外部性を根拠にツイッターが日本で普及することはないだろうとしているが、これはその後のスマホブームやアラブの春などにおけるツイッターの存在感の浮上を予見できなければ無理もない話だ。

 不思議なのは複雑な社会の情報インフラにこれだけ鋭いメスを当てられる彼が会見で謝罪会見で見せた驚くべき幼児性というか非成熟性である。メンバーを恫喝するなどアンガーマネジメント能力の欠如に加えてビジネス面でのマネジメント能力が著しく欠けていたことを自ら反省点として述べているが、それを自覚しておきながらなおその補完のために指原莉乃高橋みなみの本にリーダーシツプの指針を求める態度にはもはや社会人としての常識を疑わざるを得ない、というのが正直な感想である。そこに見るのは恐るべきコミュ障の姿であり、そのキーワードによって彼が接触によりAKBにはまり、さらに接触のコストパフォーマンスを追及することで地下アイドルにはまり…というプロセスの背景がよく理解できるのである。彼が自らのアイドルとの関わりについて総括するならばコミュ障としての自覚、それを背景としての接触への惑溺という経験から現在の地下アイドルとファンの関係を規定するメカニズムについて言及するところから始めるべきであろう。彼に求められているのは、もう一切アイドルについては語りません関わりませんと宣言することではなく、自己の客体化によるファンとアイドルの関わり、それが日本の社会にとって何を意味するのかを明らかにすることにある。